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とっぱら〜ざしきわらしのはなし〜レビュー

主人公の性格がこの作品を取っつき難い物にしているという意見も多い作品ですが、実際にプレイしてみると主人公の性格は話に聞くほどひどい物ではありませんでした。むしろ設定年齢の割にはしっかりとしていたと思います。
他者に責任を押し付けるような言動も見られましたが、自分に責任の所在がある事を無意識的に理解している風であったので、不快感はありませんでした。両親を共に失って日が浅い事と主人公の年齢を考慮すればどれだけ落ち着いていて理性的な精神をしているか。

さて、主人公の性格については置いておくとして、本編について書いていこうと思います。
ここからはネタバレの嵐で。

個別に語ると長くなるので、いくつかの目を引いた物語をピックアップします。
それでは唯一の人間のヒロイン(!)となる穂波について感想を述べたいと思います。

彼女について語るべきはその結末でしょう。(あと、このゲーム屈指のエロさ)というか、ヒロイン、結末以外は指して語る事が無いので、物語の結末について語らせて頂きます。(ネタバレ!ネタバレ!)

このお話の最後(穂波と歩んでいくことを決意した時)で主人公は妖怪を見る事のできる見鬼としての力を失います。しかし、その事態に主人公は気づきません。なぜなら今まで見えていた妖怪の事もきれいさっぱりと忘れてしまい、いわゆる普通の人間になってしまったからです。
これは主人公が妖怪に頼らずに人間と共に生きていく、そんなお話である様にも見えます。けれどもそれにしては後味が悪い。恐らくそれは主人公を、両親を失った失意の底より救ったのは妖怪であったからでしょう。人と歩く道を選択するのは良いが、見鬼としての力を、妖怪との記憶を失う必要性があったのか、その一点が引っかかります。
ここからは想像になりますが、記憶と見鬼の力を奪ったのはミドリ。主人公が人間と幸福に暮らす方法を、座敷わらしとして、女の子として、彼女が彼女なりに導き出した結論が恐らくそれだったのでしょう。しかし、これではミドリが救われない。好きな人の記憶にすら残れない。そういう点で、”とっぱら”という物語においてはこの上もないバッドエンドでしょう。しかし主人公である啓二にとっては、もしかしたら一番マトモな生き方であったのかもしれません。

さて、人間との生きていく道は後味の悪い物に仕上がっていましたが、妖怪と進む道はどうだったのか。
それを語るにはやはりメインヒロインである美影。そして疫病神の幸子が代表格となるのでしょう。
主人公の不幸は主人公自信に責任は無いという美影と、自身の不幸は甘ったれた考えから来ていると言う疫病神。主人公は、この二人や妖怪との関わりの中で自身の甘えに気付き人間的に成長を遂げていきます。そして、どちらのルートでも最終的に同じ結論を導き出すのですが、彼が導き出した結論はプレイしてからのお楽しみという事で。
面白いのは(好意の下敷きはあるにしろ)正反対に主人公を扱う二人のルートのどちらでも同じ結論にたどり着くと言う事。どこかでは人格の矯正や人格の再構築のようで気持ちが悪い、そのように述べられていましたが、実際はそのような物ではなかったのだと思います。あくまで主人公は成長しているのであって、人格が矯正されているわけではない。でなければ主人公が同じ結論を導き出せるはずがない。
ところで、人格的により成長するのは妖怪との道を進んだ場合なのですが、果たしてこれは主人公自身にとっては良い事なのか。(穂波とのばあいはあくまでも年相応。)妖怪と共に一生暮らしていくという事は人間社会からはどうしてもはみ出てしまいます。まぁ、良い事だとか、幸せなんてものは当事者以外には分からないものですよね。などとお茶を濁しつつ。